東京高等裁判所 昭和62年(う)1304号 判決 1988年12月21日
本店所在地
東京都千代田区永田町二丁目一〇番二号
株式会社サン・ライプ社
右代表者代表取締役
小川武
本籍
東京都千代田区九段北二丁目四番地
住居
同都同区三番町七番地二-三一三号
会社役員
小川武
昭和六年九月一七日生
右の者らに対する法人税法違反被告事件について、昭和六二年九月一八日東京地方裁判所が言い渡した判決に対し、被告人らから控訴の申立があったので、当裁判所は、検察官平田定男出席の上審理をし、次のとおり判決する。
主文
本件各控訴を棄却する。
理由
本件各控訴の趣意は、弁護人栃木義宏、同平本祐二、同南木武輝連名の控訴趣意書及び控訴趣意書の一部訂正申立書と題する書面に記載のとおりであるから、これらを引用する。
所論は、要するに、被告人らに対する原判決の量刑は、重過ぎて不当であり、とりわけ被告人小川武に対しては刑の執行を猶予すべきである、というのである。
そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果を併せて検討すると、本件は、不動産売買等を目的とする被告人株式会社サン・ライプ社(以下被告会社という)の代表取締役である被告人小川武(以下被告人という)が、被告会社の業務に関し、不動産の取引及びその収支を明らかにする帳簿を作成せず、かつ、売上金を他の法人名義の預金口座に入金したり、海外に送金するなどしてその所得を秘匿した上、被告会社の昭和五七年、五八年の二事業年度分の実際所得金額が合計約七億四〇五九万円で、課税土地譲渡利益金額が合計約七億五七二〇万円であったのにかかわらず、いずれの年度においても、同会社の法人税の納付期限までに所轄税務署長に対し、法人税確定申告書を提出しないで納付期限を徒過させ、同会社の両事業年度における合計四億六〇五六万八一〇〇円の法人税を免れた事案であって、原判決が「量刑の理由」として判示するところは、当裁判所もこれを是認することができるのであって、ほ脱額が巨額であること、不正の行為による無申告事犯で税ほ脱率も一〇〇パーセントであること、本件犯行の動機・経緯に酌むべきものはないこと、脱税の手段・態様は計画的であること、本件の罪質、被告人の従来の納税意欲等を併せ考えると、本件犯情は甚だ悪質であり、被告会社及び被告人の刑責には重いものがあるといわざるを得ない。
所論は、1尚敬子の被告人に対する依頼の趣旨は、従前被告会社が尚家の不動産を管理していた時と同様に、不動産の売却等を一任するので、尚家の関係会社の負債を整理し、関係会社の運営と尚家の生活が成り立つようにして欲しいというものであった。被告人は、尚家との多年にわたる関係からこの申し出を応諾し、従前の被告会社による尚家不動産の管理時代の方法を再び踏襲することとし、被告会社が尚家及び関連会社の負債を整理し、かつ、必要資金を捻出することとした。そこで、被告人は尚家の不動産を処分するにあたり、処分予定地をいったん被告会社名義に移したのであるが、それは尚裕本人の不在、関係会社の業績不振による信用不安等のため尚家の名義のままでは売却が著しく困難であったことから、債務整理・土地の処分を円滑に進めるためであって、売買とはいっても実質的には信託的譲渡といって差し支えないものであった。本件不動産の仕切値は、尚家側の税申告の関係もあって、一平方メートル当り一万四〇〇〇円と一応取り決めはしたものの、右取り決めは債務整理の必要性いかんによっていつでも変更可能な浮動的性格のものであって、尚家と被告人間では売買契約の正確な決済というようなことは一切眼中になく、被告人はできる限り有利な条件で土地を売却して行き、尚家の負債整理・事業運営及び生活に必要な資金を尚家に渡していた。その結果、国税当局の査察を受けた昭和五九年一〇月ころの時点において、被告会社から尚家に渡した金員は累計約五億二〇〇〇万円に上り、これにより尚家は経済的苦境を脱し、識名園の土地についての競売申立も取り下げられ、同土地は尚家の所有に復した。2昭和五一年以来文化庁、沖縄県、那覇市、尚家及び沖縄の有識者らの間では、琉球王国伝来の文化遺産等の散逸を防ぎ、その保存を図る必要があるとして、尚家の文化的財産についての財団化構想が進められて来たが、その設立基金として少なくとも三億円程度の現金を準備する必要があるとされていた。被告人は、被告会社の売上金の中から右財団基金として三億円程度醵出することを決めていたが、右基金を寄付した場合の損金算入のための具体的方策の検討を松田松千代公認会計士に依頼し、併せて税務申告の依頼もしていたが、損金算入の可否などについて十分煮つめることができないまま時日が経過し、同公認会計士は法人税申告手続をとらなかった。以上、要するに、被告人らの本件法人税不申告の主要な動機は、尚家の債務整理資金及び生活必要資金調達並びに前記財団の基本財産三億円の確保のためというのが真相であるのに、原判決が「その犯行動機は結局自己の金銭的欲求を充たすためであって・・・・」と認定したのは明らかな誤認であって、前記のような本件行為に至る経過とその動機・目的につき、情状として十分考慮がなされるべきである、というのである。
しかしながら、1関係証拠によれば、被告会社の財産管理会社としての使命は、被告会社名義にしてあった尚家所有不動産の一部を昭和四五年七月ころ尚家の当主である尚裕名義へ、その余を昭和四八年六月ころ尚裕の設立したシヨウエンタープライズ株式会社名義へ、それぞれ所有権移転登記を済ませ、昭和五〇年九月解散登記をしたことにより終了し、被告会社は尚家とは関係がなくなったこと(じ来被告会社の役員は全員被告人の身内で固められて来たところ、本件対象年度後で、かつ、国税当局の査察後である昭和五九年八月一〇日の登記により、被告会社の取締役に尚裕が、同社の監査役に尚敬子がそれぞれ就任したことになっている。)、尚裕は、代表取締役を務めるシヨウエンタープライズ株式会社が多額の負債をかかえ、金融機関から融資も受けられない状態に陥り、かつまた、尚家や同社が支払うべき税金の滞納額も多額となるなど経済的に破綻したため妻尚敬子に負債整理を一任していたこと、同女は、債権者らにより尚家や同社の財産が競売に付されかねない切羽詰った状態にあり、尚家の社会的体面を保つためには早急に尚家の多額の負債を整理する必要があると考え、昭和五五年暮ころ、旧知の被告人に相談をもちかけたこと、被告人は同女に対し、尚家や同社の不動産を被告会社が買い上げ、その代金で負債を整理したらどうかとすすめ、同女も被告人のすすめに従うこととしたこと、そこで、競売阻止のためとりあえず被告会社に所有権移転登記をした後、翌昭和五六年一月末か二月初旬ころ、被告人の方から建物と山林の一部を除き大多数の土地につきその仕切値を一平方メートル当たり一万四〇〇〇円とすることを提案し、尚家側もその値段で買ってもらえれば借財がきれいに整理できると考えて右提示額を承諾した上、右代金をもって債権者らに直接負債を支払って貰いたい旨依頼し、被告人もこれを引き受けたこと、その結果尚家が被告会社に売却した右不動産の代金総額は約四億九五〇〇万円となるところ、被告会社は右不動産を他に転売するなどして得た金員の中から尚家の負債金を立替支払いをして売買代金と相殺して来たが、予想していたよりも支払うべき負債が多く、昭和五八年四月末段階で被告会社が尚家に代って支払った負債総額は約五億二〇〇〇万円になっていて、売買代金より二五〇〇万円上回っていたので、その分は被告会社から尚家への貸付金として処理することとし、双方ともこれを合意したことがそれぞれ認められる。右事実関係によれば、尚家が被告人に依頼した内容は、尚家や関係会社の不動産を処分して尚家や関係会社の負担する負債整理をすることにあり、尚家の生活資金作り、関係会社の運営資金作り、財団の基金作りにまで及ぶものではなかったことが明らかである。そして、被告人が、従前被告会社が信託を受けて尚家の不動産を管理運用していた当時と同様に、専ら尚家の利益のみを考え、できる限り多くの利益を尚家にもたらすように意図していたというならば、信託における受託者として、ないしは不動産処分に関して尚家の代理人として、あるいは仲介人として行動することが当然考えられるのに、このような方法をとることなく、被告会社が買い取り、これを他に転売して、転売代金の中から仕入代金相当額の金員をもって尚家の負債支払をするということにしたのは、被告人及び被告会社が転売による利益を手中にしたいがためであったといわざるを得ない。現に、被告人は本件不動産を転売して得た代金の中から仕入代金に相当する金額を尚家の負債整理のため使用したが、その余の転売利益に相当する金員は、その大半を被告人が主宰する休眠会社名義の預金にし、その余はハワイへ持ち出し、あるいは国内・国外で自己のための資産購入や日常の生活費等に充当しているのであって、尚家のための分別管理や運用をしていた事実は認められない。そしてまた、本件不動産の仕切値以上に尚家の負債整理のため立替支払がなされていることが判明した際に、この差額分を被告会社から尚家に対する貸付金として処理したことは、右仕切値が一応のもので変更可能な浮動的性格のものであったとする被告人の主張とは相反するのであり、尚裕及び尚敬子は、検察官に対する各供述調書において、被告人なり被告会社が、右仕切値で買った不動産を他に転売することはわかっていたが、転売先や、転売価格は被告人らの裁量で決めることで、転売利益がどれだけになるか尚家側の関知しないところであり、右仕切値以上の金が得られるとは全く考えておらず、裏取引も全くないと供述し、被告人も捜査段階では同様の供述をしていたのであって、仕切値は確定的なものとして合意されたものと認められる。なお、被告会社が尚家の不動産を買取り、これを他に転売して取得した金員をもって尚家の負債を整理してやった結果、尚家が経済的苦境から脱することができ、識名園などの名勝が尚家の手に戻り、将来琉球文化振興財団が正式に設立され発足したあかつきには尚家側からこれら財産を同財団に対し提供することも可能となるなど、尚家が被告人の労を多として感謝の念を持っていることが認められるけれども、右は被告会社が尚家に支払うべき不動産の購入代金相当額をもって負債を整理してやったという面での問題であるのに対し、本件は、被告会社が尚家から購入した不動産を他に転売して取得した金員から、尚家へ支払う購入代金及び必要経費を差引いたところの被告会社と転売先間の不動産売買取引によって得た法人所得の脱税という面を問題とするものであり、尚家の債務整理資金を作るために脱税したとはいい得ないのであって、被告人が尚家の債務整理に尽力したことをもって被告人らに有利な情状とはなし難いものというべきである。2被告人は、尚家の文化的財産の散逸防止、保存のための財団基金三億円を確保するために脱税したとも主張する。なるほど、被告人は検察官に対する昭和六二年一月二八日付供述調書において、「尚家の財産を財団法人として保全したいという希望と、自分が代表者となっている休眠会社七社を実際に営業活動させて、事業家としてスタートするつもりでいたので、これらの資金を蓄積するために脱税して利益を表に出さず、裏金として貯めていたのです。」と供述しているのであるが、原審公判廷において、右供述調書の部分に触れつつ脱税の動機を尋ねられた際には、「尚家の財産の保全とか、財団法人としての保全といったことは全く本件とは関係はない」として、脱税の動機が財団の基金作りにあったのではないと述べているのであって、当審における被告人の右主張にそう供述はたやすく信用することができない。そもそも被告人のいう財団の基金作りというのは、被告人や被告会社の固有財産から支出するのではなく、尚家の不動産を処分して得た金員から支出しようというのであるから、右不動産処分の目的のなかに右財団の基金作りもあったというのならば、右不動産の処分代金は尚家に引き渡された上、尚家から財団へ醵出されるのが筋道であるのに、そのような方途は全く考えられていないこと、前記のとおり右不動産処分による転売利益相当分の金員は被告人が主宰する休眠会社名義の預金にしたり、自己のための資産の購入、日常生活費等に充当していたのであって、財団基金用として分別して貯蓄・管理されていた分があるわけではないこと、被告人は右休眠会社名義の預金から寄付するつもりでいたというのであるが、確実に寄付を実行する手筈を整えていた形跡は何らないこと、被告人は、一方で財団基金を裏金として貯めるために脱税したといい、他方では被告会社が三億円を財団基金として寄付すべく損金算入の可否を公認会計士に相談し、これが明確になり次第申告する考えであったともいうのであるが、裏金として蓄積した金は、使用する場合にも裏で使用するほかはなく、他方、寄付金を損金算入しようとするに当たっては、この金の出所を公表せざるを得ないのであって、財団基金用に裏金として多額の金員を蓄積した上これを財団に寄付し、さらにこれを損金算入ということで公表処理をしようとすることは不可能ないしは至難であること、昭和五七年四月期及び昭和五八年四月期はいずれも、いまだ所論の財団は設立されておらず、またその設立が間近に迫っていたというところまで準備が進んでいたとは認められないのみならず、右両年度とも現に寄付していないのであるから、寄付金の損金算入の可否を問題とするまでもなく、当該年度の法人税確定申告をすべきであったのであり、所論の不申告理由は全く首肯し得ないものというべきである。
その他記録を検討してみても、被告人及び被告会社の本件脱税の動機が、尚家の債務整理資金及び生活必要資金の調達並びに財団の基本財産三億円の確保のためであったとは認められず、従って、本件犯行の動機を結局自己の金銭的欲求を充たすためであったと認定した原判決に誤りはない。
所論はまた、原判決が本件脱税の手段・態様が計画的、かつ、大胆であり、被告人らの刑責は非常に重大であるとして脱示する諸点につき、種々これを論難するのであるが、原判決が判示する諸点は当裁判所もこれを是認することができるのであって、誤りがあるとは認められず、被告人らの脱税意図があいまいで希薄なものであったということはできない。
そうすると、被告人らが本件発覚後、昭和六二年五月一四日までに、本件対象年度分の本税・重加算税・延滞税を含め合計七億一八五一万五〇〇〇円を納入したこと、被告人が本件を反省し、経理事務を改善・整備し、再び脱税問題を起さないことを誓っていること、昭和六二年三月被告人の経営する会社が銀行から融資を受け、これを尚裕に再貸付けしてやったり、関係方面との切衝の窓口となるなどして財団法人琉球文化振興財団の設立に協力していること、その後も尚家のため種々の面で尽力していること、その他被告人の経歴、家庭の事情等記録から窺われる被告人及び被告会社のため有利な諸事情を最大限考慮してみても、被告人に対し刑の執行を猶予すべき情状は認められず、被告人を懲役一年六月、被告会社を罰金一億二〇〇〇万円(ほ脱税額の二六パーセント)に処した原判決の量刑が重過ぎて不当とはいえない。論旨は理由がない。
よって、刑訴法三九六条により本件各控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判官 朝岡智幸 裁判官 新田誠志 裁判長裁判官簑原茂廣は転補のため署名押印することができない。裁判官 朝岡智幸)
控訴趣意書
被告人 株式会社サン・ライプ社
同 小川武
右の者らに対する法人税法違反事件について、弁護人の控訴の趣意は次のとおりである
昭和六二年一一月二七日
弁護人 栃木義宏
同 平本祐二
同 南木武輝
東京高等裁判所第一刑事部 御中
記
一、原判決の刑の量定不当
原裁判所は「被告人株式会社サン・ライブ社を罰金一億二〇〇〇万円に、被告人小川武を懲役一年六月にそれぞれ処する。」旨の判決を言い渡したが、右の原判決の刑の量定は著しく重きに過ぎて不当であり、破棄を免れない。
被告人らは、沖縄において一四七〇年(文明二年)から一八七九年(明治一二年)まで統治者として君臨した尚円王統の二二代目の当主尚裕の妻啓子からの依頼により、尚家の経済的苦境を打開し、あわせて尚家の文化的価値を有する資産を保全するための財団設立資金を作ることを意図して、尚家所有の土地を処分したものであり、申告期限に法人税の申告をしなかつた点においてその責任は軽いものとはいえないが、その事情を仔細に検討すると、被告人らが単なる私利私欲から本件行為をなしたものではなく、斟酌すべき点も少なくないものであることが明らかとなるのであつて、原判決の量刑、特に被告人小川を懲役一年六月の実刑に処したのは同被告人には過酷な量刑であるといわざるを得ないのである。以下に、その理由を具体的に述べる。
二、本件行為に至る経緯――動機・目的
1.原判決の認定
被告人らの本件行為の情状面において重要性を持つのはその動機・目的である。
原審検察官はこの点について、「専ら私利私欲に基づくものであつて、…犯情に酌量の余地はない。」と論告し、原判決もまた「その犯行動機は結局自己の金銭的欲求を満たすためであつて、そこには特段酌むべきところはなく…」と認定した。
右認定が被告人の量刑にとつて著しく不利に働いたであろうことは想像に難くない。
2.真実の動機・目的
被告人小川は原審においては、本件行為の動機・目的について明確な説明をしなかつた。
僅かに、被告人小川の昭和六二年一月二八日付検面調書第一九項において、
「私は、後にも詳しく述べますが、沖縄の尚家の財産を財団法人として保全したいという希望もあり、また、既に述べたように私が代表者となつている休眠会社七社をいずれは実際に営業活動させて事業家としてスタートするつもりでおりましたからこれらの資金を蓄積するために脱税して利益を表に出さず、裏金として貯めていたのです。」
と述べているのが、真の動機・目的に幾分なりとも肉迫しているが、結局その具体的内容は後に詳しく述べられることがなく、被告人小川自身は、原審の被告人質問において尚家の財産保全と本件の関わりを否定してしまつた。
被告人らは、原審においては、本件の動機・目的を尚家との関係において明らかにすることは、尚家を中心とする財団設立構想の実現に打撃を与え、尚家の名誉を損なうかも知れないことをおそれていたのである。
しかし、実際には、被告人らの本件行為は、尚家の財産保全のために財団基金を確保しようと意図したことが動機・目的の重要な部分となつていたものであり「専ら私利私欲に基づくもの」などということはできないのである。
原審の言渡しを受けた後、被告人小川は尚家と話し合ったうえ、本件行為の背景、その動機・目的について裁判所の理解を得るには、尚家の歴史と今日の状況について触れないで済ますわけにはいかないとの結論に達した。
弁護人は以下に、本件の動機・目的の解明にとつて必要な範囲において尚家の歴史と現実について触れる。なお、原審の証拠から証明できない事情については当審において尚裕の証言その他の証拠によつて立証したい考えである。
3.尚家の歴史
沖縄(琉球王国)における尚家は、本邦における天皇家にも比肩すべき家柄である。一四七〇年(文明二年)、尚家の租尚円が王位につき、以後一九代四〇九年間にわたつて尚円王統が沖縄を統治した。
一六〇九年(慶長一四年)、島津藩の琉球侵略により七代目尚寧王は捕らえられそれ以後琉球王国は薩摩藩に従属させられることとなつた。
明治維新後の一八七二年(明治五年)、一九代目尚泰王の時に琉球王国は琉球藩とされ、明治天皇は「尚泰を封じて琉球藩主となし、華族に列す」との詔勅を下し、次いで一八七九年(明治一二年)琉球藩は廃されて沖縄県となり、尚泰は東京居住を命じられ、沖縄の王国時代は幕を閉じた(琉球処分)。
上京した尚泰は飯田町の邸宅と公債二〇万円(一割利子付)を与えられ、侯爵位を授けられた(これは四〇万石の領地を持つ大名と同じ待遇であつた)
尚泰は五才で王位についてから三七才で廃藩になるまでの三二年間の激動期に王位にあつたが、王として時勢に対する判断と処置を誤らなかつたと史家から評されている。
尚泰の曽孫が尚裕であり、尚家二二代目の当主である。
4.尚家の在沖縄資産の管理
尚家は侯爵となり東京に移住した後も、沖縄に広大な所有地等を有し、尚家資産の運営のための事務所(尚家では役所と称していた)が首里に置かれ、戦前で八〇名余の従業員が雇われていた。
戦後は、沖縄の登記関係書類が戦災で消失し、土地の所有関係が不明確となつたため、尚家の「役所」(著しく縮小されたが)が、尚家所有資産の確定とその管理、運用にあたつていた。
右管理の責任者は、終戦時までは、二〇代目当主尚典の弟尚順男爵(昭和二〇年死亡)であつたが、終戦後は、尚家の家老職にあつた護得久家の当主朝章(琉球立法院初代議長)がその任にあたつた。
護得久朝章は、その晩年に弟朝光に尚家資産の管理を任せ、護得久朝光は昭和三二年に尚家資産の管理会社として那覇に新琉球実業株式会社(被告会社)を設立し、同社は昭和四八年まで尚家の資産管理を続けた。
被告人小川は、昭和三六年に社長秘書として被告会社に入社し、同三八年一〇月に専務取締役に就任し、同三九年六月には、病気の朝光社長に代わつて代表取締役社長に就任した。
尚裕は昭和四一年一月から同四八年七月まで被告会社の取締役の地位にあつた。
尚家が戦後も沖縄に財産管理事務所ないし管理会社を置かざるを得なかつた理由は、主として、東京人である尚家の当主がビザ取得の関係で米軍占領下の沖縄に自由に往き来できなかつたことによる。
尚家の財産管理会社たる被告会社は、尚家からの信託により、尚家所有不動産等の相当部分を自社名義で保有して管理するなどして、東京の尚家の生活資金その他の資金づくりをした。
被告会社は、自動車部・セメント部・物資部等の部門を有し、各種の事業を営んだり(被告人小川の昭和六二年一月二八日付検面調書第六項)、海運業・肥料製造業・製糖事業への投資なども試みたが、いずれも事業として成功するところまでは行かず.主たる収入源は沖縄にある尚家の資産の売却であつた。
昭和四七年五月、沖縄が本土に復帰したことにより、尚家の人々も自由に沖縄に出入りすることが出来るようになつた。被告人小川は尚家と協議のうえ、昭和四五年七月に、被告会社名義の那覇市内の尚家所有土地二七筆約八二〇〇坪を尚裕の名義に復し、同四八年六月には同様に尚裕が自ら資産運用のために設立したショーエンタープライズ株式会社(本社東京)に那覇市内の土地九筆四三四〇坪の所有権移転登記をした。
これをもつて被告会社は、尚家の財産管理会社としての使命を終え、尚裕も同四八年七月に被告会社取締役を退任した。被告会社は、同五〇年九月に解散し、その旨の登記をした。
5.被告人小川の沖縄における活動
被告人小川は前述の如く、昭和三六年に被告会社に入社し、同三八年に専務取締役に、同三九年には代表取締役に就任した。護得久朝光は同被告人を厚く信頼し、沖縄実業界に広く紹介・推挙してくれたために、同被告人は、昭和三〇年代の終り頃から琉球新報社・沖縄テレビの各取締役に就任し、また沖縄青年会議所副会頭を勤めるなど実業界特にマスコミ界における活動の場を広めて行つた。
被告人小川は、昭和四七年に沖縄モーニングスター社の社主となり、沖縄モーニングスターという日刊紙発行事業を手がけた。同紙は発行部数二~三万部の英字新聞であつたが、同四九年頃から同社労働組合がいわゆる新左翼の主導の下に過激な労働争議を展開し、同被告人はやむなく同五〇年には沖縄モーニングスター紙を廃刊とした。然しながら争議は昭和五三年まで激しく続き、被告人小川は警察の勧めに従い、身を守るために昭和五〇年から同五三年まで沖縄を離れて東京で生活をした。この争議のために同被告人は琉球新報社・沖縄テレビの取締役等をも退任せざるを得なくなつた。
昭和五〇年頃、被告人小川は沖縄モーニングスター社の争議、英字紙廃刊にからんで、沖縄モーニングスター社が同被告人の保障の下にアメリカ銀行(那覇支店)から借り入れていた約一億五千万円の借入金返済のために、那覇市内の建物を売却した。同被告人は、右売却代金をもつて保障債務の履行に充てたものであるから、本来その返済分は譲渡益から控除されて然るべきものであつた(所得税法第六四条二項)が、右譲渡税申告期に同被告人は沖縄を離れざるを得ない状況にあり申告手続を余儀無く第三者に任せたために、右控除の手続がなされず、一億円を超える譲渡税を課されることとなつたのである。
被告人小川は、昭和五〇年の争議激発以後は、事業収入も減少したために、蓄えを使い或いは借入金によつて生活をすることとなつた。
6.尚裕の事業と公共的資産の管理
尚裕は、被告会社から資産の引き継ぎを受けて後は、自らショウエンタープライズ株式会社を経営して不動産運用・レストラン経営を行ない、他に尚栄物産株式会社を経営して、那覇市内の西部オリオンホテルで土産物店を営んだ。
尚裕は、沖縄に個人で自由に処分できる物件のほかに、公共的・文化的価値を有するものとして、玉陵・崇元寺・識名園を所有していた。
(イ) 玉陵は、尚家歴代の墓所で重要文化財に指定され、敷地は約七〇〇〇坪あり昭和四八年頃より、尚家が管理して一般公開しており、首里観光の中心地の一つである。
(ロ) 崇元寺は、歴代の琉球王の霊を祀つた寺院であるが、現在は石門だけが修復再建され、重要文化財に指定されて、一般の観覧に供されている。
尚裕は寺の敷地約六〇〇坪を所有している。
(ハ) 識名園は、首里城を居城とした尚家の庭園であり、別邸があつた。敷地は約八〇〇〇坪あり、昭和五四年頃より、文化庁・沖縄県・那覇市・尚家の四者で構成される名勝識名園環境整備委員会が作られ、四者が出資してその修復・再建作業が続けられて今日に至っている。
尚裕は、識名園の造園・管理・修復事業の請負会社として有限会社南西農場を設立した。
7.尚啓子による負債整理の依頼
ところで、尚裕の事業は悉くうまく行かず、尚裕は昭和五五年九月頃、妻啓子に後を託す形で所在不明となつた。
尚啓子が関係会社の整理に着手したところ、金融機関・市中金融からの借り入れや税の滞納分等負債の総額は三億円にも達していることが判明した。名勝識名園の土地にも抵当権が設定され、レストラン・土産物店等の従業員とは給料の未払等のトラブルがあり、同女だけでは手のつけられない状態であつた。そこで、尚啓子は同年一〇月、長年にわたつて尚家の資産を管理していた被告人小川に負債の整理を依頼したのである。尚啓子の被告人小川に対する依頼の趣旨は、従前被告会社が尚家の不動産を管理していた時と同様に、不動産の売却等を一任するので、尚家の関係会社の負債を整理し、関係会社の運営と尚家の生活が成り立つようにしてもらいたいというものであつた。
被告人小川は、尚家との多年にわたる関係からこの申し出を応諾し、従前の被告会社管理時代と同様に、被告会社に土地所有名義を移したうえで負債整理をすることとし、同年一一月一七日付をもつて(同年七月三一日に会社継続の決議をしたものとして)被告会社の継続登記手続を経由した。
被告人小川は、ショウエンタープライス株式会社又は尚裕所有の不動産を昭和五五年一二月以後順次被告会社名義に変更するとともに、とりあえず被告会社名義にて借り入れをして緊急の債務の処理に充て、同五六年四月以後右土地を処分して行つた。
8.負債整理のための土地売却の趣旨
被告人小川は、尚啓子と何回となく相談し、負債整理の方針を固めて行ったがその要点は、従前の被告会社による尚家不動産の管理時代の方法を再び踏襲するもので、被告会社が尚家及び関連会社の負債を整理し、かつ必要資金を捻出するというものであつた。
尚家が処分を依頼した土地の大半は、かつて被告会社が自社名義にて管理していた土地であつた。
債務整理のための土地売却にあたつては、尚家の処分予定の土地をすべて一旦は被告会社名義に移すことにしたが、それは尚裕本人の不在、関係会社の業績不振による信用不安等のため尚家の名義のままでは売却は著しく困難であるという状況下にあつて、債務整理・土地売却をスムーズに進めるには他にとるべき方法がなかつたことによる。
この点に関しては、尚啓子の国税当局に対する「土地の処分に関しては小川さんに全てを任せておりましたし、また仮に小川さん以外のものに土地の処分を頼んだとしても尚家の恥を世間にさらす結果となるだけで何も良い結果は生じませんので毛頭小川さん以外のものに頼む気はありませんでした。」という供述(原審甲四号証四頁参照)が比較的よく当時の状況を示している。
右のような趣旨で債務整理を進めたものであるから、尚家から被告会社への不動産移転は、実質的には信託的譲渡といつて差し支えのない性格のものだつたのであり、登記原因は売買とされたが、契約書などの作成は一切なされず、昭和五五年一二月中に名義移転した土地について昭和五六年一月か二月中に尚家側の税務申告の必要性をも考慮して、松田公認会計士とも相談のうえ一m2当り一四、〇〇〇円という単価の設定をしたのである(この単価は、尚裕がそれ以前に自ら土地を処分した時の価格を相当上廻っていたものである)。
しかし、尚啓子においても被告人小川においても、両者間の売買契約の正確な決済というようなことは一切眼中になく、被告人小川は、できる限り有利な条件で土地を売却していき、尚家の負債整理・事業運営・生活に必要な資金を尚啓子に渡していたのが真相であり、昭和五九年一〇月頃に国税当局の査察を受けた時点において、被告会社から尚家に渡した金員の合計が累計約五億二〇〇〇万円に上つていたということにすぎない。
右の交付額が両者間の売却仕切り値を二五〇〇万円上廻つていたということは国税が関与してからの計算の結果そうなつたということにすぎず、国税の査察が入つていなければ、仕切限度額超過の意識なくして、引き続き尚家の必要に応じて被告会社から資金が渡されていたであろうことは疑いを容れないのである。右のような両者間の関係の下における土地売却処分と処分代金の運用は、税務的観点からみると杜撰極まりないといえるであろうが、かつての昭和四八年までの被告会社の管理時代は、そのような形においての土地の信託と資金づくりがなされていたものであり、両者の間に違法性の意識が稀薄であつたことは一概に責められないように思われる。
被告人小川は、尚家の所有地の売却代金の中から尚家負債整理資金・事業資金生活資金として右のとおり昭和五九年一〇月頃までに総額五億二〇〇〇万円を渡した。これにより、尚家は経済的苦境を脱し、識名園の土地についての競売申し立ても取りさげられ、同土地は尚家の所有に復したのである。
9.財団設立の準備
被告人小川は、整理を進めていく過程において識名園の関係者とも会い、昭和五四年以来文化庁(八〇%)、沖縄県(一〇%)、那覇市(五%)の補助金に尚家負担金(五%)を加えて、識名園の修復・再建計画が進められていること、文化庁等が識名園・玉陵・崇元寺などの尚裕個人の所有の公共的・文化的資産の将来に重大な危惧を抱いていることを知つた。
実際、文化庁・沖縄県などは、尚裕の財産管理能力に疑問を抱き、かつ尚裕の相続時における財産の分散、減少をおそれ、少なくとも尚家の財産のうち前述の公共的・文化的財産についての財団化を希望していた。
尚家は、玉陵・崇元寺・識名園といつた文化遺産のほか、琉球王国伝来の膨大な書物・工芸品・織物その他の文物を東京国立博物館その他に寄託する形で所有していたが、それらの文物の価値は計り知れないものであり、その敬逸も危惧された。
被告人小川は、昭和五六年一〇月に尚裕の長男尚衛とともに文化庁文化財保護部建造物課課長鈴木嘉吉と会い、文化庁が尚家遺産の財団化を強く希望していることを確認し、それ以後は、実際に松田会計士に設立手続の進行方を相談し、設立基金として少なくとも三億円程度の現金を準備する必要があることをも知らされた。
その後尚啓子、尚衛は何回か財団化の件で文化庁を訪ねている。
被告会社は、昭和五八年二月に那覇市字銘苅採謝原八五五番の土地を三億二七八五万円で売却し、この代金のうち三億円を財団設立基金にあてることで尚啓子と合意していた。
ところが設立基金の準備は出来ても肝心の尚裕の所在が不明であつたため財団設立手続を実際にそれ以上進めることができなかつた。
被告人小川は、尚裕が戻つてきた昭和五八年七月頃に、尚裕を代表者とする任意団体琉球文化保存会をつくり、その事務所を被告会社の事務所におき、それ以後は同会が玉陵の運営を担当するとともに、識名園の修復の仕事をも進めて行き同会を財団に発展させて行くこととした。
然るに、同年一〇月頃より国税の査察が入つたため、財団化構想は一頓挫したのである。
10.被告会社の法人税の不申告
被告人小川は、被告会社の継続登記以後の経理、税務面について旧知の松田松千代公認会計士と相談した。
同会計士は、日本公認会計士協会常務理事・沖縄会会長の要職にあつた。
被告人小川は、尚啓子と相談して、尚家及び関係会社の税務関係等をも松田会計士に依頼することとし、同会計士は昭和五六年以降尚裕個人及び関係会社の税金申告手続をした。
また同会計士は尚啓子からの依頼に基づいて、昭和五七年に尚栄物産株式会社をショウエンタープライズ株式会社に吸収合併させたうえ商号を株式会社尚栄と変更して新発足させ、また有限会社南西農場を解散し、識名園の造園・修復・運営等を担当する株式会社識名園を設立した。
被告人小川はまた前述のとおり、尚家資産の財団法人化の手続をも松田会計士に依頼しており、被告会社から寄付する方法により財団法人の基本財産を用意した場合寄付金について損金算入の方法が無いかどうかを相談したところ、同会計士は損金算入の可能性を否定せず、具体的に検討する旨述べていた。
被告人小川は、松田会計士に対し、被告会社が尚家の依頼により、その負債整理・資金づくりをするために土地の処分を委任された経過や財団化の基金づくりの計画を説明しつつ税務申告の依頼をもしていたものであるが、被告人小川と同会計士の間において、税申告の基本的方針特に右の財団寄金の損金算入の可否などについて十分煮詰めることができないまま時日が経過し、同会計士は法人税申告手続をとらなかつた。
11.本件不申告の動機・目的
被告人小川が被告会社の昭和五七年四月期、、同五八年四月期の法人税申告をしなかつた事情は、端的にいえば尚家と被告会社との資金関係と財団の基金をどうするかについて明確な方策が立たなかつたためといえる。尚家側の税申告の関係もあつて仕切り値を一m2当り一四、〇〇〇円と一応取り決めはしたものの、右取り決めは債務整理等の資金の必要量いかんによつていつでも変更可能な浮動的性格のものであつた。
また、被告人小川は、被告会社の売上金の中から財団基金として三億円程度を醵出することを決めていたが、右基金を寄付した場合の損金算入のための具体的方策を検討しているうちに時が経つてしまったという事情もある。
これらを要するに、被告人らの本件法人税の不申告は、尚家の債務整理資金・必要資金調達の必要性と財団の基本財産三億円の確保の必要性を主要な動機としていたというのが真相なのである。
従って、原判決が「その犯行動機は結局自己の金銭的欲求を充たすためであって…」と認定したのは明らかな事実誤認である。
当審におかれては、是非とも以上に詳述した本件行為に至る経過とその動機・目的につき、情状として十分に考慮していただきたい。
三、本件脱税の態様等について
1.原判決の認定
原判決は、被告会社が多額の利益を得ながら無申告のまま本件犯行に及んだこと、会計帳簿を備えなかったこと、関連会社名義による預金をしたこと、ハワイへ金銭の持ち出しをしたこと、虚偽の回答書を作成・提出したことなどからその脱税の手段・態様も計画的かつ大胆であるとし、被告人らの刑責は非常に重大であると認定する。右認定もまた被告人らの量刑上不利に働いたものと思われる。
2.本件脱税の手段・態様の特徴
しかし、実際には、被告人らの右行為は本件脱税行為の計画性、大胆さを物語るものとはいえず、かえつて被告人らの脱税意図があいまいで稀薄なものであつたことを示すものである。
第一に、被告人らが尚家側と同様に松田会計士と相談していながら、尚家が税申告をしているのに、被告会社が無申告であつたということを考えると、本件を用意周到な脱税事件と捉えることはできないと思われる。
本件のように多数件の土地売買がなされ、売主たる尚家側がそれを申告している場合、反面調査として被告会社側の調査がなされる蓋然性は非常に高いのである。
それなのに漫然と不申告を続けたということは、被告会社の納税の方針が立たなかつたことを示すものである。
被告人らは不申告のまま課税を免れ得ると考えていたわけではなく、いずれ近日中に税申告をしなければならないことを感じつつも申告を怠ってしまったというのが真相である。
第二に、会計帳簿を備えなかつた虚偽の回答をしたなどの事実も、弁護人が原審最終弁論で述べたような事情があつたことに加えて、被告人小川においては尚家のためにやつていることなので、自分が税負担の直接的当事者であるという意識に若干欠ける点があり、何となく安易に考えていたという面があつたものと思われる。
第三に、被告人小川の関連会社名義による預金は、三億円の財団基金を確保するという目的の下になされた行為である。
被告人小川としては、右三億円の損金算入が認められることを期待しつつ、これを全く他に運用することなく預金継続をしていたものであり、決して脱税の手段・態様の計画性を示すものではないのである。
第四に、被告人小川は、被告会社名義で麹町パークマンションの一室を購入し関連会社名義でハワイへ資金を持ち出し、不動産を購入したりしているがこれは資産運用の一環としてなしたものであり、金額的にも合計して譲渡益の二〇%程度にすぎず、決して脱税の偽装等を意図して行なつたものではない。
現実にも、昭和六二年五月に麹町パークマンションを売却処分して、本件法人税の重加算税分の支払いに充てている。
本件のほ脱税は巨額であり、税ほ脱率も一〇〇%と高率ではあるが、その事情は右のとおりであり、被告人らは、いずれにしても三億円の財団基金のための寄付金相当分の税務処理方法がはつきりした時点において申告する考えを有していたものであるから、虚装行為による脱税を意図した計画的事犯とは態様を異にするものであることを斟酌していただきたい。
四、被告人らによる税金納付
原審において主張・立証したとおり、被告人らは昭和六二年五月一四日までに、本件法人税を重加算税・延滞税を含め合計七一八、五一五、〇〇〇円支払つて完済した。被告会社の所得の実に九七%強の金額を法人税として納付したことになるのである。
被告会社としては、他にも延滞したままの地方税の支払いが残つており、来年四月期には昭和六二年度に処分した麹町のマンションの譲渡所得に関する法人税の支払いをして行かなければならない。
本件においては、被告人らは、多額の重加算税・延滞税を支払つたことにより脱税行為に対する懲罰を十分にうけたものということができる。今後は被告人小川をして社会にあつて被告会社の活動を継続させ、営業収益の中から残つている税の支払いに全力を尽くさせることこそ国家的利益に適うものであると弁護人は確信する。
五、被告人の反省の情など
被告人小川は本件について心から反省しており、再犯のおそれは全くない。
被告会社の組織体制も整備され、経理・税務事務などは島田税理士に依頼し、尚衛が担当職員となつた。将来において、再び脱税問題をひき起こすようなことは絶対にあり得ないものと断言することができる。
六.その後の財団設立準備等
本件の摘発により財団設立の準備は一時中断を余儀なくされたが、本件捜査が一段落した段階で再び財団設立の話は進められ、昭和六二年六月一〇日に財団法人琉球文化振興財団の第一回発起人総会が開かれた。尚裕理事長以下理事一四名、監事二名の顔触れも決まり、設立手続の窓口でもある文化庁伝統文化課との折衝も重ねられ、昭和六三年一、二月の認可申請書提出を予定している。
右財団の主たる事業内容は、前述した名勝識名園の環境整備、庭園の公開・管理玉陵の管理運営、古文書・工芸品などの文物の修復・保存・公開等を予定しており年来の計画がようやくにして実現しようとしている。
三億円の基金については、被告会社の準備した金員が国税当局に差し押しられ、税に充当されたので、昭和六二年三月に被告人小川の経営する琉球農業開発株式会社が銀行から融資を受け、これを尚裕に再貸し付けする形で準備をした。
被告人小川は本件のことがあるため、財団設立について表立つた行動は一切とつていないが、右基金準備に協力しているほか、被告会社の本社事務所を財団設立準備委員会の事務所(将来においては財団の主たる事務所)として提供するなどできる限りの協力を続けている。
また、尚夫妻の被告人小川に寄せる信頼は厚く、同被告人は引き続き琉球農業開発株式会社名義にて資金を調達し、尚裕の事業資金・生活資金を用立てている。
被告人小川の存在が尚家の生活と事業を支えているといつても過言ではあいのである。
七.結論
以上に述べた諸事情に加え、被告人小川はこれまで多年にわたつて尚家のために尽力して来ており、沖縄の実業家において果たして来た役割も決して小さなものではなかつたこと、家庭にあつては一家の中心であり、将来的にも被告会社をはじめとする関係会社の経営者として社会に貢献し責任を果たすべき立場にあること、尚家の事業と生活及び財団法人琉球文化振興財団の維持・運営も同被告人の存在を抜きにしては考えられないことなど被告人に有利な諸般の情状を総合的に考慮され、被告人らに対して原判決を破棄して寛大な刑の言い渡しをして下さるよう、特に被告人小川に対しては執行猶予の判決を言渡して下さるよう切に望むものである。
財団法人 琉球文化振興財団(仮称)
設立趣意書
寄付行為
役員人事
事業内容
収支予算書
財団法人「琉球文化振興財団」(仮称)
寄付行為(案)
<省略>
琉球文化振興財団
<省略>
財産目録
<省略>
琉球文化振興財団収支表(案)
<省略>
琉球文化振興財団管理費(案)
<省略>